病理診断
    
未分化(原始)神経外胚葉性腫瘍(PNET)

これがまんぼうじろうの病理診断名です。

WHO分類 GradeW
小児ではテント下、成人ではテント上の発生頻度が高い。極めて悪性度が高く、脳室、脊髄腔への播種傾向が強い。
病理学的には小脳に発生する髄芽腫に極めて類似しているが、一般にPNETは髄芽腫より予後は悪いといわれている。

これだけでも絶望的な告知でしたが更にまんぼうじろうのような中脳原発のPNETは検索してもほとんど症例報告もないほど稀で、当然生存例が確認できないということでした。
小脳で手術でとりきったと思われる症例でさえ、再発のリスクを負っているのに、脳幹(中脳)である為、手術でとりきれていない・・。
自分なりに文献や、インターネットで検索してみましたが、自分達の望む治療成績の報告などに出会う事はありませんでした。

この時点ではこれ以上の情報は得られなかったのですが・・。
髄芽腫、PNETは化学療法、放射線療法が比較的よく効き、新しい研究(末梢血幹細胞移植併用の大量化学療法)で良好な成績を上げてきているということをもうしばらく後に知る事になります。

化学療法(小児科病棟へ)

2003年9月9日

脳神経外科主治医より「最終的な病理診断は今、G大のN先生のレポートを待っている。治療の時期が遅れてもいけないので、化学療法の方針について小児科のK先生に話し、小児外科にCVカテーテル(ブロビアック)の依頼をした。」と説明を受ける。

G大のN先生は神経病理の第一人者ということで、診断に迷うような症例については相談をするということ。

      11日(木)

OP室、全身麻酔下でCVカテーテル挿入。
同時にルンバール(腰椎穿刺)施行。
腫瘍摘出術後、26日目、この一ヶ月の間に四度目の全麻。先月のOP時には採取した髄液中に腫瘍細胞が陽性だったということだが、今回のルンバールでは陰性。一度陽性だったからには安心はできない。
さらに脳脊髄圧は0CmH2Oということ。V−Pシャントのような感染のリスクは無いものの、第三脳室底開窓術では圧の設定ができないため、自然に脳脊髄液の産生、循環のコントロールがつくのを待つしかない。
正常は10CmH2O位で0だと大人なら立ってもいられないような値らしい。病気がわかった時、水頭症の状態の時は30CmH2Oあったとも聞いた。この急激な変化でも耐えられるのは子供の適応力の高さからであろう。

    12日(金)

小児科転科、小児病棟へ転棟。
前日のCV挿入術後の痛みはあるものの比較的元気、医師や看護師にも慣れてきていたため転科、転棟を嫌がっていたが、なんとかなだめる。脳外科病棟は小児科のようにプレイルームなどないため、今後長期に及ぶ治療には小児科の方が子供にとっては都合が良い。

夕方になってから小児科担当医グループより今後の治療について説明がある。
化学療法1コース後、末梢血幹細胞採取、放射線療法、化学療法2コース目施行し、その後末梢血幹細胞移植を伴う大量療法を2回続けて行うというもの。
このプロトコールはまだ倫理委員会審議中で前例が無く、提示できる成績はない。
しかし、病気の悪性度を考えると今選択できる治療の中で最も期待できるであろう・・と。
従来の治療で厳しいということであれば、医師が提示する最も効果的だという治療にかけるしかないと思った。

 13日〜15日

化学療法に入る前ということで2泊外泊。

 16日(火)〜20日

化学療法レジメン1

day

1

2

3

4

5

CBDCA(420mg)

VP16(84mg)


初日のみ何とか食事摂取したが、翌日から吐き気があり病院食摂取できない。
気持ちが悪いといいつつ食べたがるのはさっぱりしたものより、カップラーメンのようなもの。よけいに吐きそうだが、この子に限らず、そんなもんらしい。
抗癌剤による腎毒性を最小限に抑える為、点滴は2000ml/dayの負荷がかかり尿回数が増え、持続して睡眠がとれない事も体力消耗の原因となる。倦怠感が強く昼間もウトウトすることが多い。
治療後順調に!?骨髄抑制は進み好中球0まで下がる。
今回の治療後自家末梢血幹細胞採取を予定している為、27日からG−CSF(顆粒球コロニー刺激因子)投与。治療により骨髄機能をたたいておいてこの薬を与える事によって、本来骨髄中にしかない、幹細胞を末梢血中に導き出し、最も出てきている時に採取するため。

 10月7日9日

末梢血幹細胞採取(ハーベスト)
末梢血中に幹細胞が出てきている時期を採血のデーターで見計らって採取となる。
本人の動脈ルートから脱血し回路を通した血液を遠心分離にかけ、必要な幹細胞を含む白血球を分離採取しそれ以外の血液を静脈ルートから返血していくという処置。
ルート確保(なかなか入らず何度も穿刺され)と、1回あたり5時間も拘束される苦痛で泣き続け、いまだに「ハーベストが一番つらかった・・。」と記憶しているらしい。
トラブルもあったが、一応移植二回分の予定数の幹細胞採取できた。

レジメン1での効果判定

8月の腫瘍摘出後2cm大だったものが1.6cm大、レスポンスはあるが充分でない。レスポンスの良いものであればこの1回の治療で消えてしまう事もあるということは、後に聞いた。

小児科病棟

常時30床程度の入院患児のうち半分程度が血液、固形腫等の悪性疾患の子供。化学療法を受ける子供たちの管理の為、病棟にはガラスの扉がありそこから先へは15歳以下の子供は入れない。骨髄回復期には扉の外の食堂などで兄弟との面会ができるが入院患児は売店へいくことも禁止されているので検査や他科受診以外に外に出る事はほとんどない。病棟内に院内学級が併設されていて、勉強のほかいろいろな行事、レクリエーションなど先生方は工夫をしてくれている。
ほぼ全員の母あるいは祖母が付き添いをしており、母同志は必然的に親しくお付き合いをするようになる。
副作用により食欲が全くないため制限内(基本的に加熱食)であれば補食は可能、病棟内にキッチンがあるのでそこで母達が子供の食べそうなものを調理する事ができる。
まんぼうじろうはほとんど病院食は受け付けなかった為、毎食手作りのものを食べさせていた。

またまた脳外科病棟へ

このプロトコールで次は放射線療法
このまま小児科病棟で放射線の時期も過ごすのかと思っていたら脳外の主治医から脳外科病棟への転棟を言い渡された。まんぼうじろうもようやく小児科での生活パターンに慣れ、私もお友達ができたところだったので拒否してみたのだが・・。小児科のベッドの問題とか、病院のシステム上の問題とかでどうにもならず放射線の時期のみまた脳外病棟に戻る。長期入院を必要とする子供にとって周りの環境は大切な問題だと思うのだが・・・。

放射線療法

放射線療法の概要

まんぼうじろうの場合
3歳以上転移、播種ありのグループ分類
よって
全脳、全脊髄24Gy
後頭蓋窩40Gy
腫瘍(腫瘍床)+1cm周辺に55Gy予定される。

放射線照射期間中週一回オンコビン1.2mg静注も併用

2003年10月16日

放射線科受診
放射線医師より照射予定、予測される副作用、晩期障害について説明

「これまでは放射線照射による成長障害などを最小限にするため、ここの施設では髄芽腫に対して初回治療として全脊髄照射は行っていなかった。しかし、他の施設の成績などからやはり全脊髄への照射も行った方が成績がよいのではないかということになり、ここ1年位でやるようになった。こういう病気になって今まで長生きした子はいないから、どうなるかなんてわからない。最初のうちは放射線宿酔といって吐き気などあるがそのうち慣れる。」

早口で淡々と言われる。診察といっても患児の顔を見るわけでもなく、母親に説明するだけの時間。
これがまだ日本の医療現場ではよく見かけられる風景。

「長生きした子はいない。」辛い言葉でした。

         17日

照射部確認、決定の為の計測、CT
もう少し小さい子だと照射の恐怖でじっとしていられない為、毎日薬で寝かせて照射をする。
まんぼうじろうは、一応聞き分けのできる年ということで入眠処置なしということになる。
照射中に動いてしまうと位置がずれてしまうため、固定の為のシェルという樹脂製のマスクを作りたいのだが・・。
ニコニコとしためがねの放射線技師が「ちょっと熱いよ。」と言って、加温機から取り出したメッシュの樹脂をまんぼうじろうの顔に乗せた。
心の準備ができてないので「あつい!」と言って顔をそむけてしまう。あたりまえだ。私だって、びっくりするようなタイミングの悪さだった。子供だってちゃんと説明して言い聞かせればたいていの事はがんばれる。そのように仕向けれるよう親への説明もしておけばもっとスムーズにできるのに・・。

結局シェルの作成はあきらめ、毎回照射中に顔を動かさないかハラハラさせられることになった。

        21日〜

全脳1.8Gy/日、全脊髄1.8Gy/日で照射開始。

当初から言われていた、放射線宿酔は慣れるものではなく照射回数が増すごとに悪化していく。
毎週放射線科受診するたびに「そのうち慣れるから・・」という返答だが、脳外主治医によると照射部位が脳幹であるため(嘔吐反射などをつかさどる所)らしい。
小児科病棟だと脱水気味になると躊躇無く補液(点滴)をしてくれるのだが・・。だいたい前回の化療後食べれないのは続いているのに、照射とオンコビンで吐いてばかり。
言わないと点滴もないので、なるべく自己申告するようにした。

     11月7日

全脳、全脊髄はこの日まで。

        10日

この日から後頭蓋窩照射。
最初のうちは歩いていけていたのにこの頃から吐き気とふらつき、貧血もどんどん進み車椅子生活。
順番が来るまで廊下のソファで読んでいた「ちびまるこちゃん」とか「お〜い、竜馬」などの漫画にも手を出さなくなった。体重は20.5Kg術後に比べ4Kgのダウン。

        21日

この日から腫瘍部照射。
ココから照射中の「変なにおい、こげてるみたい。」に悩まされる。
放射線、脳外の医師、放射線技師の誰もが口をそろえて「おかしいなぁ。そんな匂いしないはずだけど・・。」と言う。しかし、全脳照射の時などは、言わなかったのに(そしてこげるなどという認識も無い子が)いうのだから、きっとそうなのだろう。なんといっても医師たちは自分自身で経験したわけではないのだから・・。

頭の中から本人だけがにおう焦げ臭さってどんなだろう?
知能の遅れはどの程度来るのか?成長ホルモンはどの程度障害されるのか??

     12月9日

照射終了。
このときのData

白血球

1100

好中球

500

ヘモグロビン

7.8

血小板

28.1

        11日

放射線療法後、評価の為MRI
「放射線で消えるかと期待していたのですが・・。」と脳外主治医。

腫瘍は消えなかった。腫瘍径1.5cm
若干小さくなった程度。
かなり辛い思いをしてがんばったのに・・。

照射は何とか予定通り終了。
副作用による骨髄抑制の為、これが回復するまで次の治療ができない。更に年末年始になるから次の化療は年明けになる予定。年末年始は一時退院し自宅で過ごし、年明け小児科病棟へ再入院し次の治療ということになる。
一時退院といっても腫瘍は残っており、骨髄機能は悪く、食欲も無く全身状態が悪いので本当は入院を継続していたいところ。その旨、伝えたが、婦長さんから「年末年始はなるべく患者さん減らしたいので・・。」と、はっきりいわれた。私としてはかなり腹立たしく、そそくさと帰ることにした。

     12月20日

退院。

めずらしく大雪の日になった。
病棟からみえる公園も真っ白な雪化粧。
この日、まんぼうじろうと同じ年の髄芽腫のお友達が亡くなりました。呼吸器をつけて個室にみえたので子供同士は面識はありません。お母さんとは毎日のようにお話していました。病歴の先輩であり、とても穏やかな、でも強いママさんでよく励ましてもらってました。

再入院

2003年末〜2004年始は自宅で過ごす。
退院とはいっても全身状態は最悪で、脱水にならない程度の経口摂取がやっと。
病院では食べれないものを・・、と思ってもなかなか食べられず、たまに「おいしい。」といって食べたと思ったら、その次の瞬間嘔吐するといった具合。次の治療に向けカゼをひかさないようにそればかり・・思っていた。
この時期の日記に全くまんぼうたろうについての記載がない。家に残されている兄弟児の心のケアなどについての認識もあり、あえてオーバーアクションに接してきたつもりだが、振り返ってみるとやはり、余裕無かったことがわかる。

2004年1月8日

化学療法レジメン2施行目的で再入院。

この日から籍をそのままにしておいた院内学級に登校し始める。

脳外主治医と今後の治療について話をする。
レジメン1、放射線で腫瘍が消失していない事をふまえると、今回のレジメン2のあとすぐに大量療法になる事は私としてはとても不安。
骨髄バックアップ用に確保してある末梢血幹細胞は2回ないし3回分の量しかなく大量施行後に腫瘍が残ればこの子の予後は先が見えてきてしまう。
情報は少ないながら、インターネットで調べたりすると同様の病気の子でもう少し化学療法の回数を多く行ったり、γ-ナイフを行ったりして、とにかく腫瘍縮小を狙った治療を実施している子がいるらしい。
「大量療法に入る前に寛解の状態にしておきたい。」という私の希望を脳外主治医に伝える。
主治医からの回答は「腫瘍の場所が脳幹ということもあり全脳、全脊髄照射が終わったばかりの現状で、脳幹の浮腫など起こす可能性がありγ-ナイフは難しい。今回は前回と使用薬剤も違う為、治療後のレスポンスをみて、その後の対応を決めたい。」ということ。

この子が入院するまで私が勤務していたのは成人の血液内科だった。
白血病をはじめとする血液疾患、固形腫での造血器幹細胞移植も実際今まで自分の目でみてきた。寛解時移植と、非寛解時移植では大きく予後は違い、不幸な転帰をいくつも見てきた。
移植前に何とか寛解に持ち込みたい・・。

造血器移植を担う病棟では移植が必要な患者が続く場合クリーンルームの確保、稼動スケジュールに苦慮する場合がある。
このプロトコールのまま治療が進むとすれば、まんぼうじろうのために病棟では2月末か3月移植予定で事を進めていくだろう。一度決めたスケジュールを変更させるよりは、自分達の意向を打ち出しておいた方が、よいだろう・・、と同業者であるが故の思いもあった。

化学療法(レジメン2)

2004年1月13日〜17日

day

1

2

3

4

5

IFO 2.4g

 

 

VP-16 80mg

今回、化療はイフォマイドの副作用、出血性膀胱炎予防の為水分負荷、利尿剤がしっかり入り一回尿量が少ないまんぼうじろうは30分〜1時間ごとにおしっこの為起きなければならず、持続した睡眠がとれない。特にベプシド(VP−16)が入っている間は倦怠感が強く、ウトウトしている事が多い。吐き気も強くほとんど食べれない。
比較的頑張って行っていた院内学級も行けなくなり、ベッドで横になっている事が多くなった。TVやビデオを見ていても自然に寝てしまって、食事や薬の内服の為、無理に起こすことになるが、いくら寝ても寝たらない様子。

1月18日

7歳の誕生日。
同室のママさんやばぁばから、誕生日プレゼントをいただき機嫌はよい。
昼食にお祝い膳が出るが、赤飯2口、すまし汁少々のみ摂取。

1月25日

ようやく少し食欲出てきた。夕食前に始まったPC(血小板輸血)で急激な咳、口唇チアノーゼ出現。その後全身の膨隆疹。医師の診察は無く、On Callのみで吸入、クロールトリメトン、ソル・メドロール、点滴静注にて一旦は症状改善するが、PC再開し、再度膨隆疹出現。深夜1時半また、吸入、ソルメド、クロトリ、施行。当直の医師いるはずなのにね。一度も診察なしでした。

小児脳腫瘍フォーラム

2004年2月1日

小児病棟の師長さんから案内のリーフレットをもらっていた(後に小児科主治医K医師が私たちに知らせる為師長さんにメッセンジャーになってもらったとわかる。)
「小児脳腫瘍フォーラムin関西」参加の為大阪に行く。
繰り返しになるが小児脳腫瘍についての資料というものは本当に少ないのでわずかな手がかりでもいいから知識が欲しい時だった。

リーフレットには第二部の各論で髄芽腫とともにPNETが明記されていた。まんぼうじろうの付き添いをばぁばに交替してもらって、夫と二人で行く事にした。

講演の内容は小児脳腫瘍コンソーシアムのHPに準ずるのでココでは省略するが、過去10年の治療成績に基づいた実績・Dataを示され、大量療法によって無病生存している症例があることがわかった。これまで「この病気になった時点で、レ・ミゼラブル・・。」といわれていた私たちに一筋の光が与えられた。
講演会の始まる前に配布されていた質問用紙に、これまでの経過と質問事項をできるかぎり詳しく記載し、提出していた。
会の終了時、名前が呼ばれた。質問に対して講演された先生方が手分けして対応して下さる様子。
このとき私たちの質問を拾い上げてくださったのが、髄芽腫、PNETの講演をされたA先生だった。
今までの治療経過、治療の反応(効果)、今の治療計画でこの時期に大量療法に行く事への不安感、伝えられる全ての言葉を使って訴えた。
先生は「この治療計画でいいのかもしれない。放射線もしているし・・。しかしお母さんが言われることもよくわかる。自分達の施設ではシスプラチン、エンドキサンでの効果があるのでこれを一度試してもいいのかもしれない。」という助言をいただいた。

ココでA先生と話した内容、助言された事を自分の口から主治医に間違いなく伝える事ができるか?、最善の方法だと信じてやってくれている主治医たちに失礼に当たるのではないか?そんな気持ちがあり率直にA先生に言った。

不安そうに困っている私にA先生は「小児科主治医の○○先生の事は知ってるし、今日こうやって相談を受けて、助言した事をメールで伝えてあげようか?」といって下さり、後日小児科主治医宛にメールが届いたそうだ。
「ありがとうございます。私たちも一番良い方法を見つけたいので、主治医たちと話し合ってみます。」
このようなやり取りの後、会場を後にした。

標準的治療が確立されていない小児脳腫瘍の場合、治療施設、グループ、医師の経験値によって意見はわかれる。
家族は少ない情報でも何とか手がかりがないものかと右往左往する。
どの施設でもベストを尽くしてくれていることは理解している。しかし、「こんな病気になっても、生きている。治っている子がいる。」を探しているのだ。
このフォーラムの演者の先生方の言葉には確かな経験と力強さを感じた。
  「まだ、治癒の可能性は残されている。」
          ---つばさvol.44特集脳腫瘍p.38より--

帰りの車中、夫も私もやや興奮気味に、明るく多弁だった。
「近畿はすごいな。小児脳腫瘍に関してこんなフォーラムが開催されるって事じたい・・。今日、行ってよかった。光がさしてきた気がする。この薬でやってもらえるかな?とにかく医師たちと話し合ってみよう。」
この日が私たちのターニングポイントとなった。
自分達が希望する治療をはっきりと医療者側に伝え、選択していく。このときまだ私たち自身、後日正式にセカンドオピニオンとしてA先生の元をたずねる事になるとは、思ってもいなかった。
結果として転院ということになったが、自分達が選んだ治療を受けさせる事ができ、満足感しか残っていない。
この日の出来事は私たちにとって何にも例えられないほどの幸運でした。心からA先生に感謝しています。ありがとうございました。

主治医たちへ相談

翌日には小児科、脳外科、それぞれの主治医にこの内容を話し、希望を伝える。
現在の治療方針については、新しいプロトコールにのっとって実施しているのであり、変更となると主治医たちだけでは判断しかねるので、グループで検討してから返答するということ。
他の大学の医師の意見も聞くということで、検討結果が聞けたのは2月13日。なんと10日以上もかかった。この時点ですでに前回治療の骨髄抑制も脱しており、次の治療方針がなかなか決まらないことに苛立ちがあった。

カンファレンス

2月13日

カンファレンス
この話し合いの日までの期間は本当に長く感じていた。
出席したメンバーは脳外科から腫瘍グループのトップである助教授、主治医、小児科医2名、病棟師長、私達夫婦。
まず、これまでの治療、それぞれの段階での評価を話される。
期待していただけの効果に達していない事は、共通の認識だった。

「御家族がこの段階で大量療法になる事に不安を持って見えるのはよくわかります。そこで、いろいろ検討した結果、レスポンスがあった最初の治療を一回追加してその後大量療法をしてみてはどうかという意見になったわけです。」
最初の化学療法(レジメン1)は確かに、多少の腫瘍の縮小はあった。しかし、これ以前に「レスポンスの良いものは一回の治療だけでも消えてしまう事がある。」と聞いている。効果があまり期待できない治療をしたくないという思いもあった。
このプロトコールはまだ症例が無く、まんぼうじろうが初めて受けるものであった事から、過去十年の実績のある近畿の治療を試したい気持ちが強かった。

先生方の考えとしては、プロトコールを最後まで行ってみないと最終的な判断が出来ないから、追加するとしてもレジメ1を一回だけというニュアンス。
大きく効果の期待できない治療を一回入れて、大量療法にかけるということにどうしても納得がいかなかった。確保してある幹細胞は限られており、それを使ってしまった後に腫瘍がのこっていたら・・。
移植病棟に勤務していた私は、移植前治療(大量療法)の毒性の強さ、合併症の怖さも知っているつもり。
話し合いは平行線だった。

ここで、脳外の助教授が「御家族も私たちも、一番いい方法を見つけたいというのは同じ。A先生と先日の脳腫瘍フォーラムでお話された時は、資料も何も無かったわけだから一度資料を持ってセカンドオピニオンの意見を聞きにいかれてはどうですか?」と提案してくださった。

私自身が提示された治療内容を納得できていないので、セカンドオピニオンを受けに行くことにした。
資料の作成から、A先生とのアポイントまで脳外の先生方が取り計らってくださり、翌週受診する事になる。

セカンドオピニオン

先日のフォーラムでのお礼と御挨拶はそこそこに。
主治医たちと話し合った結果と自分達の希望、その妥当性について先生に相談に乗っていただきたい旨を伝える。

持参した紹介状、プロトコールの詳細、MRIに目を通される。「これはホントにPNETで診断はついてるの?造影で増強されてこないとか、化学療法にレスポンスが悪いことなど、ちょっと変わってますね。でも、まあ病理でそういう診断がされているならそれにしたがって考えるしかないですね。」

「本当にレスポンスが良いものなら1クールで消えてしまうものもある。レジメ1は効いたといっても確かにあんまりぱっとしませんね。同じ種類の薬でも薬によって効き方は違うのでメニューを変えてもいいかもしれない。」
私たちが希望している事が全く的外れな事ではないことが確認できた。
「先生の<まだ治癒の道は残さされている。>という言葉に頼って来ました。どんな治療でも100%がないことはわかっています。この子に治癒の可能性はありますか?」という私の問いに、「手術で全摘できている、出来ていないという事より、薬が効けばいい話しやからなぁ。はっきりいってこの子が治るかどうかはボーダーラインだと思います。でも、やってみる価値はあると思います。」

この受診を前に家族の意見は一致していた。
良い治療方針があるなら転院しようということに・・。

転院の希望である事をA先生に伝える。
「御家族の希望ならそうしてあげたいとこなんやけど・・。慢性的にベッドがいっぱいで、すぐにというわけにいかない。かといってあまり時間を空けられないから、関連病院で調整してみようか。」


この時点で、本当はA先生のみえるこの病院で治療したいという希望は強かった。関連病院とはいっても信頼している先生の元ではないということは不安だった。しかし先生の言われるとおり時間の余裕はない。後は先生の判断にお任せするしかないので、調整をお願いして帰路についた。

帰りの車中、A先生よりメールあり。「来週、遅くとも再来週中には関連の○○病院でベッドの都合が出来そうです。もう一度主治医と話されてそれでも転院の意思が変わらなければ御連絡下さい。」という内容。
その日は自宅で一泊し翌日、病院にもどる。